峠歩きの景色

ノボリオイゾネ/稲詰峠から茗荷峠、松ノ木峠、伏木峠へ(峠歩きの景色)

今回の<峠歩きの景色>は東京都は青梅にある小さな峠です。2003年の12月、雪の残った時期でした。


2003年最後の峠訪問は、東京は青梅地区、成木地域の峠を歩くことにした。
JR東青梅駅北口から県道に出て都バスに乗り、30分ほどで成木街道の滝成バス停に到着。
そのまま街道を西に歩き、「多摩組」と大きく書かれた資材置き場の先を左折。橋を渡って左に曲がり、道なりに歩けば開けた畑に出る。
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その左前方に、こんもりとした小道が尾根に向かって延びており(写真中央やや左)、その道が峠路のようだ。1週間前の降雪がまだ残っている。

斜面をジグザグに登れば、20分少々で鞍部に到着。標識は無いが足元に目印用の赤紐が結んである。
「稲詰(いなづめ)」とは小字名だそうだ。この峠道、昭和30年代までは児童の通学路だったという。南の北小曾木(きたおそき)川沿いにあった旧青梅第十小学校のことかもしれない?南側を覗いてみたが、降りるのは困難に感じた。
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写真右側(北)から登ってきた。この尾根を正面(西)に向かう。

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峠を北側から写す。

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紐を目印に尾根伝いを西に歩く。この尾根は高水山から派生しており、「ノボリオイゾネ」と呼ばれている。宮内氏『奥多摩』曰く「天秤棒みたいな細長い尾根」である。
上の写真は三等三角点のある411.2mの夕倉(ゆうぐら)山。展望は無く、隣の採石場からの稼動音も響くので、早々に立ち去る。
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この鞍部が茗荷峠だろうか?
途中で木材運搬用の錆びた車輪が道端に放置されている箇所がある。参考文献によれば、そこから大きく下ったところが茗荷峠とのこと。
かつては上成木村上分の梅ヶ平(たいら)と北小曾木村の白岩集落を結んでいた(『青梅市史』)。残念ながら現地では峠道を確認出来ず。

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松ノ木峠では四体の石仏が出迎えてくれた。内、元禄11年(1698年)の馬頭観音様は青梅市最古の石仏だそうだ(『青梅市史』)。
手袋を脱いで合掌。お陰さまで地形図からも消えた山道を無事に歩くことが出来ました。
そのまま尾根を進み、伏木(ふしき)峠に到着。北側から峠道が延びている。
正面に石嗣があり、注連縄と竹筒で祀られ、驚くことにお賽銭と真新しいお餅が供えてあった。今でも大切にされている証だ。下の写真、中央やや右が伏木峠の石嗣。8

峠でようやく2万5千図にも破線が現れる。あとは地図どおり、尾根の左側を縫うように進み、3本目の丸太橋で沢を渡って鋭角に戻る。じきに高水山との分岐点だ。

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高水山の分岐点に到着。何と「伏木峠」の標柱がある。守屋氏の本(文章最後に列挙)によれば、こちらは間違いとのこと。確かに『青梅市史』の付録地図でも先の方を記しているように読み取れるし、何よりも石嗣の存在が説得力を増している。ひとつ気になるのは、『青梅市史』の(明治の)「字地の整理統合」の項にて、「ふしき」の小字名が、上成木村上分と北小曾木村と、峠同様に2か所存在することだ。

軍畑へ向けて下れば、養鶏小屋もある白岩集落に出る。後は駅までひたすら歩くだけだ。


(追記)
東京の登山家M様より「増補改訂 青梅市史」付録地図にある「橋詰峠」は誤植であるとのメールを頂きました。当方も青梅市に問い合わせましたところ、やはり誤植であったとのご回答を頂きましたのでお知らせ致します(2004年2月記録追記)。
また同じくM様より、2つある伏木峠について、「成木集落で聞いた話では、祠のあるところだそうです。白岩集落ではあの辺一帯(高水山分岐から祠がある鞍部一帯)を伏木峠という人もいました。もう少し正確に調査したいと思っています。いずれに当時の様子を知っている古老が少なくなり、地名や伝承民俗など次第に調査が難しくなってきています」との大変貴重な情報を頂きました。
M様、わざわざご丁寧に有難うございました。この場をお借りして、あらためて御礼申し上げます。(2004年2月)
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【参考文献】
1.本コースは下記の書物を参照し、また文中に出典の明記がない説明も同書を参考とさせて頂いた。
・稲詰峠から松ノ木峠へ:「多摩100山」(守屋龍男著 新ハイキング社 2003年)
・松ノ木峠から伏木峠へ:「新多摩の低山 ようこそ65の山へ」 (守屋龍男著 けやき出版 1999年)
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2.文中に出典を明記したもの
・「増補改訂 青梅市史」(東京都青梅市 1995年)


峠歩きの景色を公開中。三月銀輪館のサイトを是非御覧ください。

旧正丸峠から刈場坂峠へ(峠歩きの景色)

今回の<峠歩きの景色>は奥武蔵の定番の峠です。季節は12月。今から12年前になりますが、タイムスリップしてみましょう・・・。


【年月日】2003年12月
【コース】正丸駅→正丸峠→正丸山→旧正丸峠→サッキョ峠→虚空蔵峠→刈場坂峠→高麗川源流保全之碑→正丸駅


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正丸駅前右手の階段を降り、西武線のガードをくぐって大蔵山の集落に入る。
今日は、この冬初めての本格的な寒波が到来しているという。案の定、集落の中を歩いていると粉雪が落ちてきた。今年も秩父で初雪だ。去年は刈場坂峠だった。その時は1ヶ月も早かったけど・・・。
馬頭観音の分岐では、左手に伊豆ヶ岳の道を見送って右手に向かう。大蔵山林道と名付けられた車道もこの付近で終わり。
更に右手に正丸峠ガーデンハウスの道を見送り、あとは沢をツメていく。最後の急な階段を喘ぎながら登れば、正丸峠の茶屋の裏手に出る。
いつの間にか粉雪も止んでいた。
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(車道が超える現在の正丸峠)
茶屋でひと休み後、車道向こう側の階段を右上に上って、いよいよ尾根歩きの始まりだ。
正丸峠展望台、正丸山、川越(かんぜ)山とピークを結んでいく。頻繁に上り下りを繰り返し、特に丸太の階段が辛い。かなり体力を消耗する道だ。
そんな道でも何組ものご年配のハイカーさんとご挨拶する。皆さん、お元気だなぁ。
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(写真:尾根は手前南から降りてきて、正面北の階段を登る。)
階段を急降下して、ようやく旧正丸峠に着く。駅から約1時間半、ホッとひと息。峠を見渡すと、東西の峠道への降り口はハッキリと残っている。
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(写真:綺麗な鞍部を残している峠は良いものだ。東側から撮影。)
この旧正丸峠、昔は「小丸峠」とか「南沢峠」とも呼び、「秩父峠」の名もあったそうだ(※1)。江戸時代には、秩父と江戸を結ぶ最短距離の道として、秩父の絹を積んだ馬が列をなして峠を超えたという(※2)。秩父を結ぶ代表的な峠だったのだ。
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(写真:「サッキョ」とは狭(サ)尖峰(キ・ヲ)峠の転化と想像してみた。)
続いてサッキョ峠。2万5千図には峠道共々に記載が無い。現地でも標識がないと通り過ぎてしまいそうだ。
峠道の痕跡も良くわからない。どんな峠だったのだろう?
帰宅後、たまたま60年代の紀行文(※4)を読んでいたら茶屋の描写があった。こんな狭い尾根上にあったなんて、お店の人も毎日大変だったでしょうに。それとも昔は道幅が広く、それは車道開通と関係があるのだろうか?
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サッキョ峠から少し歩くと東側が開けた。飯能方面の展望が良い。国道299号線だろうか、眼下に車道が僅かに見える。
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虚空蔵峠では、草むらの脇に、ワンカップとお賽銭が供えられた虚空蔵菩薩様が鎮座している。ただし石嗣の銘板は現代のものだ。新しい母屋にお引越ししたのかもしれない。
昔、西の中井の集落の人たちは炭焼きで生計を立てており、峠を越えて越生方面へ炭を運んだそうだ(※2)。当時の人もきっと手を合わせことだろう。自分も旅の安全を祈って合掌する。
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虚空蔵峠の歴史は古い。昔は秩父出身の防人たちが越えたそうだ。
そして旧正丸峠は主に中世以降によく利用された為、最古の正丸峠は、実はこの虚空蔵峠を指していたという説がある(※2)。従って、先の小丸峠、南沢峠、秩父峠などの別名も虚空蔵峠を指していたとも推察出来る(※1)。
また「秩父誌」によると「二子峠」と呼んだとも。恐らく芦ヶ久保にある二子山付近を通る峠の意味と思われている(※2)。
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林道を数分歩き、道標に従って左手から再び山道へ足を向けよう。
途中で写真のような辺りが開けた一帯に出るが、実は昔、スキー場があった場所らしい。興味深いので参考文献(※3)より纏めてみた。
西武鉄道の前身である武蔵野鉄道が昭和4年に飯能−吾野間を開通させたが、不況の影響で石灰岩の輸送が減り、経営不振となる。その打開策として、沿線の山々を「奥武蔵」と名付け、ハイキングの宣伝に力を入れた。そしてこの地を「奥武蔵高原」、無名の草刈場の入会地だった一帯を「刈場坂峠」と命名し、冬場の客足対策として「奥武蔵スキー場」をオープンした。しかし大雪だった昭和11年の1年間だけは盛況だったものの、その後の積雪はゼロとなり、結局、営業も中止となってしまったというのだ。
スキー場もさることながら、「奥武蔵」そして「刈場坂峠」と命名したのが鉄道会社だったとは意外な事実だ。
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牛立久保からの登りが最後のピークだ。
北側が大きく開け、はるか遠くの市街地までが良く見渡せる。
ピークから降りたところが終点、刈場坂峠。
鉄道会社が命名する以前、この峠は何と呼ばれていたのだろう?
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峠には無人の茶屋があり、車が1台止まったきりの閑散としたもので、長椅子の列が寂しそうだ。昨年は確か店の人がいたはずだが・・・、時期の問題だろうか?
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これにて本日の峠巡りも終了。あとは林道を下って正丸駅に戻るのだが、遠回りになるので途中で谷へ降りて近道をしよう。
道標はないが、林道を歩き始めて2、3分、写真のような電柱の間へ下る小道が左手にある。刈場坂の集落からの昔の峠道だと思われるが如何だろうか。
集落の人たちは峠を越えて越生方面まで米などを買いに出かけたという(※2)。秩父は、荒川を利用して農産物がはるばる輸送されてくるため値段が高く、その点、越生の方が安くて種類も豊富だったそうだ(※3)。
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道はハッキリしていて迷うことは無い。沢山の切り倒された丸太にビニール紐が結んであり、切り株にも番号のついたシールが貼ってある。現在は林業の人が使っている道なのだろう。
谷底に出るまでは散乱した小枝が足に絡まり少々歩きにくい。それでも谷につけば、チョロチョロと水の音が聞こえ、そのまま降りると沢沿いに合流する。結構楽しい道だ。
入り口から30分ほど歩けば再び林道に合流。1ヶ月前(2003年11月)に建てられたばかりの真新しい「高麗川源流記念之碑」の脇に出る。あとは林道をひたすら下り、車の排気ガスを我慢しながら国道299号を歩いて、1時間で駅に到着だ。
いやいや、奥武蔵の峠は奥が深い。まだまだ分からないことだらけだ。機会があったら昔の地誌をじっくりと調べてみよう。


(参考文献)
(※1)「峠道 その古えを尋ねて」(直良信夫著 校倉書房 1961年)
(※2)「山村と峠道」(飯野頼治著 エンタプライズ 1990年)
(※3)「増補ものがたり奥武蔵」(神山弘、新井良輔著 金曜堂出版 1984年)
(※4)「忘れられた峠」(内山雨海著 池田書店 1961年)
・コースガイドは「新ハイキング 2002年11月 No.565号」(新ハイキング社)を参考にした。

山梨 穴路峠から旧雛鶴峠へ(峠歩きの景色)

今回の<峠歩きの景色>は2003年の12月、とある平日の朝に訪れたものです。
年末の平日という時期もあり、ハイカーとは全く会わず、ちょっと心細い峠歩きだった記憶があります。


穴路峠とは何か縁があるのかもしれない。

そもそもは以前のニューサイクリング誌(2001年2月号No.442)で、三上昭氏が「光をパッと浴びる峠」と紹介されてから気になっていた。
そしてALPSさんで「旧峠を訪れる山みち入門コース」をご相談した時に、この峠を薦めて下さった。「道はハッキリしているんだけど、何となく道を外れたような気がして少しばかりスリリングだよ(笑)。」

ここまで不思議と条件が揃えば、あとは訪れる時を待つばかりだ。パスハンを同伴しようと思ったが、徒歩のスピードは自転車とはまた違った景色が見えるだろうと思い、今回はゆっくり歩きで味わうことにした。

駅前からバス停「たけのり入口」までは、国道20号を東に進む。この辺りの舗装路歩きは自転車と違って少々もどかしい。バス停を右折して踏切を渡ると眼前に山並みが広がる。道なりに下り、桂川に架かる虹吹橋を渡って丘の上にある小篠の集落へ向かう。
集落の中では道標に従って山道へと入る。貯水池を右手にやり過ごし、濡れた落ち葉を踏みしめながら沢沿いを進む。
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(沢沿いの為、小さな石がゴロゴロしている )

所々に道標があり、また木々にテープが結んであるので少しは安心した。けれでも平日の朝早いせいか人っ子一人と出会わず、「熊出没注意」の黄色い看板もあって、少々心細い。そして路面は小さな石がゴロゴロして歩きにくい。歩幅を靴幅まで狭め、足を前に置くように腰でリズムをとりながらゆっくり歩いていく。

駅から歩いて約1時間半、高畑山との分岐点に到着。登山ガイド本では「石仏」と記載してあり、今では台座しか残っていないが、その代わりに小石が積み上げられいる。お賽銭も供えられていた。
山歩きは予想以上に大変だ。思わず手袋を脱いで合掌する。ここまで無事に辿り着けたことを感謝し、これから先も、どうか安全に歩くことが出来ますように・・・。昔の人が何故に神仏を峠道に祀ったのか実感出来る。
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分岐を左にとってからは、行く手に大きな岩が増える。その表面は苔むして緑色に染まっている。そして飛び石で沢を渡るところもある。今日は、先に3日間続いた長雨からはまだ何日も経っていない日だ。水量も恐らく普段より多いだろう。
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石仏から約40分後、ようやく沢から離れ、九十九折りで山肌に取り付く。しばらくは薄暗い林の中を進むが、やがて目の前がパッと開ける。よし、もう峠は近いぞ。

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やっと峠についた!標高は845m、綺麗な切り通しの小さな峠だ。道の端に座り込み、リュックを降ろし靴を脱ぎ捨て、水筒の水を口に含む。これでようやく一息だ。
あらためて周囲を見渡せば、東西に高畑山と倉岳山の尾根道が延びている。正面に見えるのは棚ノ入山だろうか?鳥の囀りも聞こえることなく、かすかな風の音だけが感じられる。この雰囲気をしばし満喫しよう。

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穴路峠は別名「アナシ峠」とも呼び、アナジ、アナシとは北西風の方言ということから、冬に峠を越す厳しさから名付けられたとの説がある(※3)。また「穴師(鉱山師)が超えた峠」に由来するとの説も(※5)。集落名をとって「小篠峠」とも呼ばれた(※2)。
昔の無生野の人たちは炭を背負って鳥沢宿まで歩いた(※1)。男たちだけでなく女や老夫婦も炭俵を背負った(※2)。現在よりもっと荒れた道を粗末な装備で越えたのだ。熊などの野生動物の危険もあっただろうに。
第一、峠なんて本当は歩きたくなかったに違いない。平坦な道の方がどれだけ安全なことか。それゆえ無事に越えることが出来た時には心から安堵したことだろう。

開発の波から逃れた代わりに、本来の目的を終えた峠は、そんな感傷を自分に抱かせてくれた。
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無生野に向かう道は、先ほどの登り道に比べれば格段に良い。これなら自転車でソロソロと降りられるかなと思ってしまう道だ。けれども沢沿いの道はやはり難儀である。

峠から約1時間後、県道脇の民家が見える。峠越えもようやく無事に終わった。いやいや、お疲れ様・・・。

この後は旧雛鶴峠へ足を向けることにする。その前に雛鶴姫のお墓参りをしよう。県道を渡った反対側に案内版があり、一本の山道が延びている。そこを300メートルほど歩けばひっそりとお墓があるのだ。
墓前で手を合わせた後、再び県道に戻り、雛鶴神社にも立ち寄る。境内には雛鶴姫の石像がある。
再び県道を歩き、旧道へ分岐して、抗門手前の左手から山道に入る。IMG_00721
旧雛鶴隧道(秋山村側)

途中で鉄塔をやり過ごし、15分ほどで峠に到着する。標高は800m、こちらも綺麗に鞍部を残している。
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旧雛鶴峠。別名大ダミ峠とも呼ぶ(※1)。天神峠の別名もあり、先の穴路峠など、道志山塊の二十余りの峠は、どれもそのように呼ばれたそうだ。いずれもかつては峠に天神社があったという話である。ここで言う天神とは塞の神のことではないかと推察されている(※4)。

これにて本日の峠巡りは全て終了。疲れはしたが、充実した峠歩きだった。
やはり昔ながらの峠は良いものだ。これからも峠歩きを続けていこう。


峠歩きの景色は、まだ幾つか記録が残っております。
順次公開して参りますので、どうぞお楽しみに。


(参考文献)
(※1)「甲斐の山山」(小林経雄著 新ハイキング社 1992年)
(※2)「尾崎喜八詩文集5 雲と草原」(尾崎喜八著 創文社 1958年)
(※3)「山梨百名山」(山梨日日新聞社 1998年)
(※4)「峠の神」(岩科小一郎)(「こころの旅1 峠」岡部牧夫編 大和書房 1968年)
(※5)「山名の不思議」(谷有二著 平凡社ライブラリー 2003年)

埼玉 奥武蔵 高麗峠超え(峠歩きの景色)

今回の(峠歩きの景色)はお手軽な日帰りハイキングコースです。
今から8年前の”景色”ですね。


【年月日】2007年3月
【ルート】飯能駅-高麗峠-巾着田-高麗駅


本当は秩父の峠に行く予定を立てていたが、目覚まし時計を止めてハッと我に返ったら既に9時。時間を気にしながらの峠歩きも嫌だなぁと、急遽予定を変更。

以前図書館でコピーをしていたガイドブックを眺め、目に付いたのが飯能駅からの高麗峠。駅から歩けるし、子供の遠足コースでもあるらしいので、難易度も低いだろう。ここなら何も考えずポカーンと歩けそうという事で、そそくさと着替えに入る。
大袈裟な格好は嫌だったので、洗いざらしの古ぼけたジーパンに普段着のシャツを羽織る。そしてデイバッグを担いだ様は、ひと昔前の予備校生みたいな感じ。「山歩きにジーパンとは」とお怒りの向きもあるだろうが、そもそも峠越えは生活に密着したものだしね、と屁理屈をつけて西武線に乗り込んだ。
(・・・と、強がりを書いていますが(^^;、やはりジーパンは良くないでしょう。濡れた時の重さや、伸縮性の悪さはもちろん、見落としがちなのが、足に熱がこもること。かなり不快です。)

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国道299号の西武線高架をくぐった先に[高麗峠」の標柱が立つ自然歩道入口(写真)がある。
なだらかな起伏が続く路の脇には、生き物や草花を紹介したミニパネルが設置されている。
峠まではゴルフ場の高いフェンスが続くが、木々が茂り、展望が利かない代わりにゴルフコースも隠してくれるので、思ったほど気にはならない。

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路ではジョギング中のお爺さんや、手ぶらで歩く人ともご挨拶。山路お散歩コースだ。
ちなみに道幅が広いので自転車を持ち込むことも可能だろうが、飯能側入り口には「二輪車乗り入れ禁止」の立て看板が設置してあったので、念の為。
また路にはところどころ割れたタイルのようなものが敷き詰められている。てっきり暴走自転車除けだと思い、お仕事中の方に尋ねたら、路がこれ以上エグれないように敷き詰めているとのこと。その上から土を覆うとのことで、このような道普請で路が守られており有難いことですね。
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さて、峠には「高麗峠177m」の標柱とベンチが2つあるだけだ。
特に展望も無いので、元気な皆さんは素通りしていく。私は疲れたので当然ひと休み。
そのベンチでお会いした、多武峯山から歩いてきたおじさんの話によると、昔は西側にも路があり、滝へ降りることが出来たそうだ。残念ながら今はゴルフ場のフェンスで通行止め。

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体が冷える前に峠を後にすれば、フェンスも無くなり、あとは無心に歩くだけ。やがて沢に沿った良い雰囲気の路に出たので立ち止まって深呼吸。ふう、気持ちいいー。のんびりしたな~。

あとは飛び石が楽しそうなドレミファ橋を渡って、巾着田へ行けばよいのだが、路上の案内版に「ドレミファ橋はありません」の文字が。仕方なく案内通り「あいあい橋」で巾着田に入る。

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菜の花の咲いている巾着田 は、マンジュシャゲ(ヒガンバナ)の群生地でもあるので、赤い花が咲く秋が見頃だろう。脇には運動場もあり、草野球をやっている。もちろん個人所有の田んぼもある。

高麗駅まで全行程8km位だろうか。
それでも日ごろの運動不足のせいで、帰りの西武線では熟睡だった・・・。

埼玉 奥武蔵 吾野の小さな峠めぐり(峠歩きの景色)

サイクルツーリングで”峠”に興味を持って依頼、標高の低い峠へ歩きで訪れることも多くなりました。そんな昔の”景色”を思い出として綴ってみました。

【年月】2007年4月
【ルート】西吾野駅-三社(みやしろ)峠-大久保峠-梨本峠-吾野駅


今回は西から東へ順繰りと、高麗川と長沢川に挟まれた山脈の小さな峠を訪れることにしよう。
半袖姿のハイカーも見かけた西吾野駅に到着したのは12時半。国道299号を歩き、まずは吾野小学校裏から三社峠を目指すはずだった。

しかし交通量の多い車道歩きと、、また「山と高原地図」で見た峠路の(迷)の文字も脳裏に浮かび、西武線の高架を潜る手前から、早々に山路に逃れることにする。

「安曇幹線348号に至る」の黄色い標柱のある送電線巡視路に入ると、山ノ神の鳥居を高めに見ながら、急な登りが待ち構えている。
小学校のオリエンテーリングコースなのだろうか、ひらがなの書かれた標識が木に掛かっている。こんな急坂を登るとは偉いなぁ。
直登気味の尾根路に、一方のおじさんの心臓は早くもバクバク、木に寄りかかってペットボトルからガブ飲みして大休止。
喘ぎながら登ってピーク地点の送電線の鉄塔をやり過ごし、子供たち用に作られた木製の見晴らし台「トムの家」を過ぎて、「至ル三社峠近道8分」の標識でようやくトラバースに入り、峠に到着。
高山峠の別称もあるので、きっと高山不動の参拝路だったのだろう。
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峠には石の道標もある。(写真右下にて。「右たかやまみち」とあるらしいが、現地では判読不能だった。)

峠から、まずは大窪側へ。
長沢川沿いの入り口(写真)には「三社峠ヲ経テ吾野駅25分・あじさい館30分」の道標がある。
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再び峠に戻って、三社側(国道299号側)へと歩みを進める。三社側の峠路はジグザグで、先ほどの巡視路とは大きな違いだ。
やはり峠路は人に優しい。素直に吾野小学校裏から入れば良かったと、この時は思ったのだが・・・。

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実は、三社側の入り口が、件の(迷)マークの通り、ちょっと分りにくいのだ。
国道から吾野公民館で折れ、吾野小学校の前を通り、用水路に沿って民家の裏を抜け、お墓の脇から峠路に入る。でも、民家の裏を抜けるのが・・・、やっぱり気がひけますよね。

たぶん自分だったら躊躇して、絶対迷っていただろう。巡視路を辿って正解だったかも。
なお道標は一切無し。うん、だって、地元の方々だけが利用した路だものね・・・。
国道沿いのコンビニでお茶とおにぎりを調達。
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さあ、次は大久保峠だ。
入り口は「奥武蔵あじさい館」前の横断歩道(写真)から。

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伐採地の中を歩き、振り返れば、伐採でぽっかりと開けた谷の先にあじさい館が見える。
程なくして、切通しの小さな大久保(大窪)峠。
標柱もお地蔵様も無いが、雰囲気の良い峠だ。
ちなみにこの峠路、大正期に作られた「学校みち」だという。この岩のような切通しを開削するのに、どれくらいの労力がかかったのだろう・・・。
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竹林に囲まれた路になれば、もう車道はすぐ下。
写真は大窪側入り口にある木の道標。「三社峠を経てあじさい館へ」の文字の上から、ガムテープで「大窪峠」と修正してある。

長沢川沿いの道は、たまに自動車が通るが、しっとりとした雰囲気の良い道。
これなら車道歩きも苦にならない。自転車でのんびり走るのにも良さそう。

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最後は梨本峠。
本来の峠路は、念仏供養塔の脇から入る路だそうだ。
確かに明らかな路があるのだが、前半は倒木が多く、ちょっと面倒。
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車道と平行に、緩やかに高度を上げていくので、迷うことはないだろう。
倒木も無くなり、しばらく歩くと、「下る」の標識のある三叉路に出る。
ここを下ると、鉄製の階段のある路に降りるらしい。
単なる山道なので、「マニア」の方(笑)以外は素直に階段から歩いた方が良いかも・・・(^^;
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梨本坂、大久保坂とも呼ぶ。
木にロープで括りつけてあった峠名のプレートは、残念ながら落ちてしまっていた。

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さて、梨本側の入り口(写真)だが、先の三社峠以上にわかり辛い(泣)。:
西武線のガードを潜り、その先で道が右に曲がるところの、カーブミラー左脇の草に隠れた小路が峠路入り口である。
三社峠、大久保峠、そして梨本峠。
日曜日だというのに、人ひとりと会わずに、静かな峠めぐりとなった。


(参考文献)
文中の説明は全て「奥武蔵」(「奥武蔵研究会」)286号及び339号の藤本一美氏の文章から引用しました。339号には地形図(巡視路のルートも有)も記載され役に立ちました。
また巡視路の入り口や、大久保峠入り口など、具体的なコースは、サイト「峠のむこうへ」様の紀行文が大変参考になりました。
心より御礼申し上げます。